戦後処理

日記

書くなり

久しぶりにブログを読んでおでも書こうとなった。1ヶ月ぶりぐらいだろうか。

 

ここ1ヶ月は転機が何度かあった。そしてたくさん泣いた。ぶえぇえ…ズズッ…うわあ…ゔぁあズズッブーーっという具合で泣いている。最近は感謝で泣くことと苦しさが分かって泣くことが多い。

 

ラブボと離れて、1日1人になり、その後山形に親が来て、4時間くらいで帰った。お母さんが料理をタッパーに入れて持ってきてくれた。アパートに着くなり掃除が始まった。部屋がとても綺麗になった。大学あと半年続けるかの話をした。青森に強制送還の可能性もあったのである。無事説得は出来たが、説得、という言葉は何処か違和感があるくらい私の心身の状況をとても心配して一度帰った方がいいのではないかと親が言っているのを、私は大学続けたいし卒業したいからがんばると言って続けられることになった、のだが。だがに続く言葉ないんですけど。帰り際、お母さんが桃を剥いたり梨を剥いたり、「はいこれあっためて!」「ご飯は?冷凍!これもあっためて!」「机出して!」「はい!食べるんだよ?美味しい?」って具合に昼ご飯が机の上に並んだ。親は車で来たので昼ご飯食べると眠たくなるということで、そのご飯の準備が出来たところで帰った。アパートの廊下で手を振って、頑張るんだよと言うお母さんと、恥ずかしいからチラ見してスタスタ歩くお父さんを見てすごく寂しくなった。扉の鍵を閉めて、準備してくれたご飯を食べ始めたのだけれど、本当に、すごく寂しくなってしまった。ご飯も美味しいし。泣きながら食べた。私は次女で、ひとり遊びが得意だと思って生きてきたけど、結構、人と一緒に居ないととても寂しくなってしまうのだとその時初めて自覚した。

 

お母さんが、私が産まれたばかりの時のアルバムを持ってきてくれた。1ページ目に、亡くなったおじいちゃんが写った写真があった。私の素質を褒めてくれて、美大に行くことも進めてくれたおじいちゃんである。私が大学一年生の時に突然亡くなった。

ラブボとおじいちゃんの話はよくする。レンジャーだったという話をしたらおじいちゃんすげえじゃんとラブボが言っていて、もっと話を聞いていれば良かったなと思った。

おばあちゃんから突然電話がかかってきた。私が夢に出たから、声を聞きたくなったらしい。最近おじいちゃんのことを思い出すという話、お母さんがアルバム持ってきてくれて、その時に、いろんなひとに大事に育てられたんだよと言われたという話をして、おばあちゃんと一緒においおい泣いてしまった。40分くらい電話した。知らない話もいっぱい聞いた。

両親が山形に来た時、まみは1人でいると精神衛生上良くないとお父さんに言われた。そんなあと思っていたけれど、それはお父さんがそうだったからみたいだ。お父さんが東京にいた時の話をおばあちゃんとの電話で聞いた。東京で専門学校に通っていたところにお父さんの弟と妹とおじいちゃんおばあちゃんで遊びに行ったあとから、おばあちゃんが考えるに生活が荒んでいったらしい。寂しかったんだと思う。とても分かる。とても分かるから心配してくれている気持ちもわかる。寂しくて苦しい。すごく分かる。それでも私は頑張っていきたいって思っている。1人でも大丈夫なようになりたい。

 

最近は、1人で自分の機嫌を取るというのをまたできるようになってきた。病院も行ってない。たまに眠れない時もあるけど、病院には行かなくてもいいなって思う。抗不安剤も飲んでいない。本当に、頑張ってるな。

頑張っていることについて、人から認められないことがほとんどだと思うが、だからといって頑張っていない、呑気だ、なにもしていないと思わなくてもいい。誰にも分かってもらえなくてもいいけど、自分だけは認めてあげたい。今段々と、自分がいい感じだと思っていた頃の自分に少し近づいてきている気がする。本当に頑張っているな。不調と葛藤の中で草むら切り分けて進んでいる。もう秋になってしまったな。