戦後処理

日記

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中学3年生の秋 青森の秋は早い 夏も短いけれども 秋が来るのが早いのである 私は青森のその季節が好きだった。日が落ちて木々のシルエットを見ながら心地よい冷たい風に吹かれるのが好きだった。合唱コンクールの伴奏の役割、クラスに1人しかピアノを習っているからという理由で私が課題曲も自由曲も弾くような流れになっていたからそうなった。そして私も唯一とりあえず弾けるからと思いやらなきゃとおもっていた。課題曲は弾けたが自由曲が難しくて本番の1週間前になっても弾けなかった。難しくて避けていた自分が悪いのである。夏休みから練習してればいいものの、楽譜をサッと見て明らかに難しい曲だったから夏休み中のピアノ教室に持っていくことをいつも躊躇っていた。ピアノを弾くことは好きではなかった。練習して弾けるようになった曲を自分で弾いてその音を聞くのは好きだったけど、私はピアノは聞くのが好きだなと思いつつ、中学では合唱コンでピアノを弾く人が必要で、弾ける人が1クラスに1人2人しかいなかったから、続けなければいけないと心の中で思いながら続けていた。ピアノが好きな人は難しい曲でも好んで弾いていた。私は物怖じして、自由曲は弾けなかった。それが発覚した時に、母が怒りながらも寝ないで私がピアノの練習をするのを待っていてくれた。夜中に電子ピアノの音を小さくして弾いて、フレーズの境目でいつもつまづくからそこを何度も練習した。練習しても出来ない。時間が迫っている。自分はいままでなにをしてきたんだと思った。夏休みから練習していれば、こんな迷惑はかからなかった。いまから練習しても間に合う目処がたたない。もう既に遅い。自分が嫌になって、ピアノから離れて洗面所に行って、鏡を見ながら自分の首を締めては、怖くなってやめてしゃがみこんだ。朝の5時までそんな調子で練習をして、それでもダメだと思ったから担任と音楽の先生に弾けませんと話しに行った。めちゃくちゃ申し訳なかった。みんなに申し訳なかった。私の様子をみていてくれた2年までの担任の先生は、今後こういうことがないようにしないとなと呼び出して言ってくれた。

それが初めて自分で自分の首を本当に絞めた時だった。絶望を感じたんだと思う。

戦後処理を初める前後からよく絶望を感じてはそうして、頭の血液が滞って膨れてきたあたりで怖くなってやめて若干の酸欠になって。

良くないなあと思う。親がこの様子を知ったら悲しむと思う。それでも苦しい、抜け出せない 過去を後悔することが重なると苦しくなる。

 

雨が降っている。昨日から胃が痛くて、今日は朝起きて頭が痛く目眩と吐き気がしたから仕事を休ませて貰った。椅子に座って休んでいたら、目の前にお菓子の缶があったので開けたらラブリボーイが以前同棲をしていた女性との写真が珍しくきちんと揃えて収まっていた。私は彼を苦しめているんじゃないかと思った。彼は私で最後だからとよく口にする。それに囚われているのではないかと思った。昨日から家に帰ってきていない。連絡を取りたくない時身を消したい時、そういう時もあるから、仕方のないことだと思う。執拗に消息を探ったりしない。しかし悲しくなってしまった。その写真を見て、彼が壁に貼った私の写真がクソに見えた。だからそれを剥がして私が印刷したふたりの写真を燃やそうとして、上手く燃えなかったから水にビタビタに濡らして捨てた。悲しかった。壁に貼ってくれているからいいじゃん かもしれないけど、悲しかった。

本当に帰ってこないで居なくなったらということを考えてみた。とても苦しく悲しくなった。私はそれでも彼のことが好きなんだと思う。でも私のせいで苦しんでいたとしたらそれはいただけないな。自分の宣言に囚われずに単体の幸せを考えて欲しい。それに向かう手伝いは何でもする。捨て身である。

この部屋は雨の音がとても響く。強い雨の中部屋の中で彼を待つ。1日2日飯は食わなくても人は多分死なない。